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BEAT SCIENTISTS 〜HIP HOPのおとづくり〜 VOL.7 feat. Illicit Tsuboi(PART 1)

インタビュー:高木“JET”晋一郎
写真:cherry chill will

 
 Illicit Tsuboi。90年代にはA.K.I. PRODUCTIONS「JAPANESE PHYCHO」やスチャダラパー“Little Bird Strut Remixed by Illicit Tsuboi (A.K.I.PRODUCTIONS)”など、いまだに語り継がれる世紀の奇盤と同時に、かせきさいだぁ“さいだぁぶるーす”など、ポップとHIP HOPを繋ぐようなトラックを生みだし、2000年代に入るとキエるマキュウでの活動や、ECDとの共犯的な作品作りやインプロヴィゼーションとも言えるライヴ活動、そしてLibraをはじめとするハードコアHIP HOP勢のミックス/エンジニアリング、DABO“おはようジパング”のようなハイパーな音響を提示したトラック・メイクなどを展開。2010年代では、RHYMESTER「ダーティーサイエンス」での幅広いトラック・メイクに加え、SIMI LAB「Page2: Mind Over Matter」のエンジニアリングや、直近ではCAMPANELLA「VIVID」でのトラック提供とミキシングなど、若手/ニューカマーとの作品作りも数多く手がけ、CDクレジットにその名前を見ない月はない程の、敏腕を誇るトラック・メイカーであり、エンジニアであり、DJであり……と様々な顔を持つ存在である。
 
 しかし、そのように多忙を極めるが故か、作品作りや数々の“伝説”は巷間にあふれるものの、実際に、彼自身の口から、彼自身の作品作りやヒストリーについて語られる機会は決して多くなかった……というか、ほぼ皆無だったと言っていいだろう。特に最近においては。
 
 今回は、ECDのニュー・アルバム「FJCD-015」の制作真っ只中という、非常に際どい状況でありながら、約3時間のインタビュー時間を頂き、彼の音楽的ヒストリーから、プロデュース論、エンジニアリングの哲学まで、幅広く話を伺い、それを何度かに分けて掲載したい。もちろん、三時間で全てを語って頂くことは不可能であり、文中でも、聞き手の実力不足もあり、隔靴掻痒な部分も多かろうとは思う。しかし、ここからIllicit Tsuboiという存在の一端が分かって頂ければ幸いである。
 
 まず第一回目は、音楽的な萌芽から、音楽シーンへの参入、そしてA.K.I. PRODUCTIONSでの制作など、主に00年代に入る以前の、Illicit Tsuboiの原点をお伺いした。
 
 
■本稿のインタビューでは、ツボイさんの原点の原点からお話し頂ければ幸いです。そこで、まずはツボイさんの音楽との出会いからお教え願えればと思うんですが。
「え!そんなとこから訊くの(笑)!?」
 
■ただ、僕も含め、ほとんどの読者はそういった部分を知らないので、本当に興味があります。
「まず原点で言えば、ウチの父親がグループ・サウンズのバンド・マンだったんですよね。だから、所謂音楽一家というよりは、音楽がウチの仕事だったという」
 
■いきなり興味深いです!
「それもあって、環境としてウチにレコードが山ほどあったんですよ。しかもコレクター的な感じでもなく、ジャンルもバラバラで、7インチから12インチから、とにかく色んなレコードがいっぱいあったんですよね。それに加えて、オープン・リールのテープも機械もあって。それで、『レコードが回るのが面白い』『オープン・リールのデッキが動くのが楽しい』っていう、まずはモノとして興味を惹かれたっていうのが記憶としてありますね。その中で自然に色んな音楽を聴いていって。そうやって聴いてたモノが、今でも好きだっていう感覚もあるから、それが自分の原点にはなってると思います」
 
■お父様の組まれていたグループ・サウンズのグループのお名前は?
ザ・クローズっていうグループで、目黒のグループですね。父親がリード・ギターで。メジャーとしてコロンビアから一枚レコードを出してて、今じゃプレミア付いてるみたいですけど」
 
■どういったグループだったんですか?
「これが、またひねくれたグループで。68年にデビューしたグループなんだけど、当時はアメリカでサイケデリック・ムーヴメントが起きてて、それを取り入れたり吸収するグループが多かったんだけど」
 
■ザ・モップスなどですね。ザ・タイガースなどもサイケ風の楽曲を生み出していたり。
「それで、『それはみんながやってるから』って、そういう雰囲気を取り入れながらも、昭和歌謡やオールディーズをそこに組み合わせた曲を作って、それで大失敗して(笑)。だから、ベースはスゴくサイケだったりファンキーな感じなんだけど、メインの部分がムード歌謡チックだったり。好きな人は好きなんだけど、俺はちょっと分らないって感じなんですけど。でも、ウチの親曰く『日本で最初にJIMI HENDRIXをカヴァーしたのは俺だ』って言ってますね。絶対嘘だと思ってるんだけど(笑)」
 
■そんな(笑)。
「だから、そういう流行の部分を吸収しつつも、あえて別の路線をやってたバンドなんだって力説するんだけど、世間的には受け入れられなかったみたいで。でも、安岡力也さん(ザ・シャープ・ホークス)と親交があったり、ザ・モップスのアルバムはウチに集まってサウンドの骨組みを作ってたり、はっぴいえんどが結成される以前の彼ら周辺と繋がりがあったり」
 
■エイプリル・フールやバレンタイン・ブルー周辺が。その意味では当時の音楽状況が間近にあったんですね。
「GSだと、ムスタングって分ります?」
 
■GSのカルト名曲として名高い“ゲルピンロック”のムスタングですね。
「あのグループも目黒の不良だったから、その流れでプロデュースとして関わってたり。まあ、半分怪しいモンですけど(笑)。でも、そうやって人脈的には色々広がりがあったみたいですね。そういう話を後から父親に聞いて、そうだったんだって。だから、後々から自分が好きになる音楽の人たちが、実は父親と繋がってたという」
 
■は〜。
「そういう流れで、GSのレコードも、家族が会員になってたURC(アングラ・レコード・クラブ:遠藤賢司や岡林信康、はっぴいえんどなどをリリースしていたインディ・レーベル)のレコードも、もちろん海外のロックも、その後はディスコ・ミュージックも……って、流行の音楽だったり、先端の音楽が一通りウチにあったんですよね。だから、好き嫌いを別にしてとにかく聴いて、それをなんとなく吸収するっていう環境でしたね。ただ、さっきも言ったけど、コレクターではないから、レアとか珍しいんじゃなくて、とにかくなんでもあるって感じでしたね」
 
■言い方は悪いですが、雑多にとにかくあるというか。
「そうですね。オールディーズのレコードもたくさんあったし」
 
■ツボイさん自身は、楽器などはやらなかったんですか?
「やらなかったですね、全然。楽器を練習するんだったら、音楽を聴いた方がいいって感じで。今は、例えば石田さん(ECD)の作品にギター/ベース/ドラムだったりを、自分で弾けないなりにやって足してるけど、そうやって楽器を弾き出したのも最近ですね。子供の頃からやってたってわけでは全然なくて」
 
■ご家族から勧められたりしなかったんですか?
「それよりも『このレコードが面白いから聴け』って感じでしたね。聴かせてどうしようと思ってたのか分からないんだけど、もしかしたら、DJっていうモノを示唆してたのかもしれない(笑)。でも、86年にDJっていうカルチャーを知って、そこから、家にあるターンテーブルとレコードでDJの真似事をまず家で始めたんですよね。そのときは『うるせえ!レコードは大切に扱え!』って怒られたな(笑)」
 
■タハハ。それはおいくつのときだったんですか?
「16歳ですね。藤原ヒロシさんだったりの流れで、DJっていうカルチャーに興味を持って。それで、学生服でそういう現場に見に行ったりして」
 
■そういったカルチャーに興味を持ったキッカケは?
「入り口は、テクノなんですよ。元々テクノが好きで、ニューウェーブ系のメディアだった『Techii』って雑誌を購読してて。その雑誌のバンド募集みたいな欄で、DJを募集してる人がいたんです。それで、その人のところにいろんな人が集まってたんだけど、その場所が六本木や芝浦の『インクスティック』で。そういう現場に集まる中に、後に僕とユニット:GOLD CUTを組むKCD(現:BBPプロデューサー)だったり、いろんな重要人物がいたんですよね」
 
■重要人物が自然に集まっていったと。
「やっぱり、やってる人自体の絶対数も、クラブ・ミュージックが聴ける場所も少なかったから、自然と興味を持ってる人が集まるんですよね。ハウスもHIP HOPもテクノも、セパレートしないで同じ場所にいるっていうか。だから、混ざりやすかったって感覚はありますね。加えて、聴く人も演る人もみんなほとんど同じっていう。そうなると、自然に顔を合わせることになるんですよね。DJコンテストとかで石田さんと知り合ったり」
 
■DJ/クラブ・カルチャーが面白いと思ったのは?
「自分が今まで聴いてきたような色んな種類の音楽を、DJっていうひとりの人が、プレイして流れを構築して、それが新しい形になっていくのが面白かったんですよね。DJのスタイルもロング・ミックスが中心で。ただ繋げるんじゃなくて、ミックスしていくことで、新しいモノとして構築していくっていう感覚が興味深かった。例えば、ビートだけのレコードって当時あったんだけど、そこに別の曲のBPMを合わせてミックスして、また別の曲に繋いでいくっていう、そういう混ぜ具合だったり構築の仕方で、新しい音を作っていくって感覚が面白かったんですよね。しかも、それを『ありものの曲』で構築していくっていうのが興味深かった。『俺もその曲もその曲も持ってるけど、そういう風に混ぜると、こういう音になるんだ』っていう発見があったり」
 
■単純に繋ぐ/ミックスするというより、どう混合させるかといった、エディットや構築も含めてのミックスというか。
「当時は、『MCがいてDJがいて』っていうよりも、どっちかっていうとDJがまずメインだったんですよ。DJがクルーを組んで、その中にMCがいるような。だから、ラップのショウケースっていうよりもDJがメインだったし」
 
■作品のリリースとしては、90年リリースのコンピレーション「TOKYO DISC JOCKEY'S ONLY」に、A.K.I. PRODUCTIONSとして“社長と呼ばなきゃ振り向かない+虹色カラーもあるかしら?”を提供されますね。
「あれは、僕もちょっと記憶が曖昧なんだけど……」
 
■ええっ!メチャクチャ重要なポイントだと思いますよ!(笑)。
「だって、20年以上も前の話だから(笑)。でも、最初に収録された『TOKYO DISC JOCKEY'S ONLY』ってコンピレーションは非常に重要なアルバムで。その当時、クラブ・カルチャーと言われるところにいた人たちの中で、曲が作れそうな人たちにプロデューサーの高橋健太郎さんが声をかけて」
 
■ECD & DJ DOC HOLIDAYやランキン・タクシー、TOKYO NO.1 SOULSETなどが収録されていますね。
「……なんだけど、なんで自分たちが呼ばれたのか、細かいプロセスは憶えてない(笑)」
 
■GOLD CUTを組まれていたツボイさんが、A.K.I.さんと組まれたのは?
「A.K.I.は当時、KRUSH GROUPっていうラップ・グループを組んでて、いろんなコンテストとかで知り合ってたんですよね」
 
■A.K.I.さんが宝島などで、高校生童貞ラッパーと紹介されてましたね。
「出会ったのは高校生の頃ですね。お互いに高2ぐらいだったと思う。『TOKYO DISC JOCKEY'S ONLY』の頃は、19〜20歳ぐらいだけど」
 
■今の『高校生ラップ選手権』の元祖のような存在ですね。
「当時は若い連中も多くて。SHINCO(スチャダラパー)も高校生だったし。で、コンピの声がかかったときに、KRUSH GROUPにトラック・メイカーがいない、GOLD CUTはラッパーがいないって状況で始めたんですよね」
 
■お互いに補い合ったというか。
「で、『TOKYO DISC JOCKEY'S ONLY』の制作で、試行錯誤しながらトラックを作ったんだけど、やっぱり半分ぐらいしか出来なくて。それで、制作側の人に半分手伝ってもらったんですよね」
 
■同作には福富幸宏さんと高橋健太郎さんがプログラミングにクレジットされていますね。
「DJにしろトラック・メイクにしろ、やり方を知りたくても情報がないし、先輩からはおいそれと教えてもらえないような時代で。みんな怖かったし、K.U.D.O.さんとか(笑)。だけど、自分たちの繋がりの中で、SHINCOがサンプラー買ったり、パブさん(DJ PMX)が機材の使い方を勉強したり、みんな手探りで使い方を考えたり、情報共有して学んでいって。AKAI S612とかS900ぐらいの時代ですね。で、自分たちも『TOKYO DISC JOCKEY'S ONLY』の制作でトラックの作り方を学ぶ中で、これはもっと出来るかなって思ったんですよね」
 
■トラック・メイクに可能性を感じたというか。
「同時に、当時PUBLIC ENEMYの『YO! BUM RUSH THE SHOW』や『IT TAKES A NATION OF MILLIONS TO HOLD US BACK』がリリースされて、THE BOMB SQUADのプロダクションに衝撃を受けたんですよね。レア・グルーヴをネタにしてたり、アメリカとイギリスのカルチャーが混ざってたりして。それを聴いて--例えば“BRING THE NOISE”とか--自分も知ってた曲のネタが、こんなに変わるんだって、ガツンとやられて、『これはトラック・メイクもやってみよう』って思ったんですよね。当時、DJ PMXもTHE BOMB SQUADに衝撃を受けてて、HANK SHOCKLEEマニアになって、あのプログラミングを再現できるぐらい研究してたんですよね(笑)。そこで、プロダクションの分析を情報交換したりして、もっとハマっていって。それから、ネタの逆回転だったり、エフェクトのかけ方だったり、THE BOMB SQUADのミュージック・コンクレート的なアイディアも、テクノ上がりの自分の感覚と近いと思ったんですよ。それで、どんどんHIP HOPに入っていったんですよね」
 
■THE BOMB SQUADの実験的な音楽制作のセンスが刺激になったと。
「自分としても、LATIN RASCALSやART OF NOISEみたいな、テープ・エディットやサンプリングを、HIP HOPを知る以前からやってたんです。だから、さっきのテクノっていうのも、いわゆる今の四つ打ちみたいのじゃなくて、テクノ・ポップやエレ・ポップの方面だったんですね。それで、家でテープを切り貼りして、テープ・ループやエディット・ミックスを作ってたりしてて。その後にサンプラーの存在を知って、サンプリングっていう手法を使えば、それが簡単に出来るんだってことを知ったんですね」
 
■そして、A.K.I. PRODUCTIONSは、A.K.I.さんとツボイさんの二人体制になり、94年に「JAPANESE PSYCHO」をリリースするわけですが、今聴いても、音もリリックも本当にカッコ良いし、本当に狂いまくってるなって。
「ハハハ。まあね(笑)。あのアルバムのネタは、8割がGS、2割がジャズぐらいの割合なんですよね。ジャズも、フリー・ジャズがほとんどで。でもそれって、そういったネタのレコードがウチにあったからだし、子供の頃から聴かされてた、ディストーションの音が反映されたのかなって」
 
■あのネタはGSが多いんですね。いまだにあの作品は、日本のHIP HOP史上では裏クラシックとして語られますが、ネタについてほとんど誰も分析してないのは、それに通じるかもしれないですね。
「高速化したり、エディットしたりもかなりしてるんで。それも僕なりのTHE BOMB SQUAD解釈というか(笑)。当時としても相当音数が多かったと思うし。ネタに関しては、GSネタは誰とも被らないなと思って使ったんですよね。でも、ジャズのネタに関しては、A TRIBE CALLED QUESTの2nd(『THE LOW END THEORY』:91年)』)とネタが被ってるのが多くて。そのネタは、トライブの2ndが出る以前から温めてたネタだったんだけど、その当時、HIP HOPのラインで、フリー・ジャズ的なネタが被るっていう発想がなかったから、それは本当にショックだったんですよね」
 
■「JAPANESE PSYCHO」とトライブが被るっていうのは、リスナーとしても衝撃ですね。
「JUNGLE BROTEHRSやトライブの初期作って、TEI TOWA君が絡んでるじゃないですか。テイ君の大本にはヤン富田さんがいて、ヤンさんが『建設的』(86年)や『MESS/AGE』(89年)を手がけてて」
 
■確かに、ヤンさんの手がけられたHIP HOPは、当時のアメリカのHIP HOPサウンドとは一線を画した、単なる翻訳ではない、新奇的なサウンドですね。
「そのサウンドをテイ君がニューヨークに持って行って、向こうの連中に聴かせたら、みんなショックを受けて……、っていうプロセスがあったことはテイ君から聞いてたんですよね。だから、流れ的には近いモノがあったわけで、その発想を先に具現化されたっていう印象があったんですよね。それで慌てたっていうか。世界観も音も全然違うんだけど(笑)」
 
■そういう歴史的な繋がりがあることに、本当に驚いてます。ただ、トライブのアルバムも唯一無二だったけど、『JAPANESE PSYCHO』も、いまだにワン・アンド・オンリーの作品だと思います。
「ちょうどFILE RECORDSから、キミドリの『キミドリ』と、僕らが同時期にリリースされるって感じだったんですよね。で、キミドリの担当は岡田(牧子)さん(FILE RECORDSのA&R。<「DEEP INSIDE of FILE RECORDS CLASSICS -compiled by YANATAKE & SEX山口-」発売記念座談会> をご参照あれ)で、僕らはHIP HOPじゃない担当の人がついてて。その意味でも、あんまりHIP HOPって捉えられてなかった。出来上がったアルバムを岡田さんに聴かせても良い顔しないっていう(笑)。ただ、キミドリも相当寄ってるから、世間から見ればどっちもおかしなアルバムなんだけどね(笑)」
 
■タハハ。確かにそうですね。
「その当時、『JAPANESE PSYCHO』の共同プロデューサーだった石田さんに、レコーディング・スタジオから自宅まで、車で送ってもらうことがあって、そのときに面白いグループがいるんだよって聴かせてもらったのが、NUMB BRAIN(BUDDHA BRAND)のデモ・テープで」
 
■BUDDHA BRANDの前身グループ名ですね。
「正にスゴい音で。俺らもスゴいことをやってるって自信があったけど、他にもこういう刺激的なことをやってるヤツらがいるんだってことを知って、またHIP HOPに対する意識が変わったんですよね。『音が突っ走ってる/ラップが突っ走ってる』がA.K.I. PRODUCTIONSだったんだけど、NUMB BRAINはその突っ走り方が、また自分たちと違う面白い方向だったんで、センスももちろん含めて、こういうのがあるんだって本当に驚いて。だから、当時変わっててスゴいことをやってた3組として、A.K.I. PRODUCTIONS/キミドリ/NUMB BRAINってイメージはありましたね。スチャダラも相当おかしなことやってたけど、やっぱり王道感はちゃんと担保してたと思うし」
 
■やっぱり、A.K.I. PRODUCTIONSを最初に聴いたときは、これをHIP HOPって捉えていいかが分からなかったんですよね。それぐらい極北だと思ってたし、聴いちゃいけないモノを聴いてしまったっていう感触があって。
「フフフ。そうかもね。本当はもっとポップなトラック・メイカーがいて、僕のカラーを中和するっていうのが、作品作りの原点的にはあったハズなんですよ。KRUSH GROUPもポップな要素があったり、もっとシャレのあるグループだったし。だけど『JAPANESE PSYCHO』になると、僕もA.K.I.もシャレじゃなくなってたというか(笑)。僕自身、音に埋没してた時期だったんで、案の定、シャレでは収まらない内容になって」
 
■まさにサイコな内容ですよね。
「二度と作れないと思います」
 
■A.K.I. PRODUCTIONS名義としては、その後「小説『我輩はガキである・パレーシアとネオテニー』」などがリリースされますが、A.K.I.さんのソロ作品という意味合いが強いですね。だから、A.K.I.さんとツボイさんのタッグによるアルバムが出てないということは、あの二人による狂気の交差は、あの一瞬だったというか。
「ただ、一応2ndアルバムの構想はあって、3曲ぐらいそれに向けたトラックも作ってたんですよ。それも、1stよりもっとおかしなことになってて。9回ぐらい展開するようなトラックだったり」
 
■ループ・ミュージックにも関わらず展開が9回も!(笑)。
「危ない曲でしたね(笑)。だけど、アルバムの計画自体が、こっちの手に余るぐらい大きくなりそうになってしまって、それでポシゃっちゃったんですよね。もし動いてたらソニーからのリリースだったはずなんですよ」
 
■メジャーでのリリースだったんですか!
「しかも、オノ・ヨーコをフィーチャリングに迎えようっていう計画をA.K.I.がしてて」
 
■!!スゴい話ですね……。同じ時期にはECDさん“Power of the Underground”(アルバム「ECD」収録:92年)などを手がけられていますが。
「今ほど関わりはなかったけど、トラック・メイカーとして繋がっていたって感じですね」
 
■トラックは色々な方に渡されていたんですか?
「いや。今みたいに、トラックを渡すっていう文化はなかったはずなんですよね。多分、トラック・メイカーっていう呼称自体、ほとんど使われてなかったと思う。プロデューサーが誰々っていうのも、日本だと今ほど注目されてなかったと思うし。石田さんの1stアルバム『ECD』は、石田さん自身がソロで活動してたっていうこともあって、いろんなところからトラックを集めてて、(そこでピックされた)トラック作れる奴の中に僕もいたというか」
 
■確かに、グループの中、もしくはクルーの中など至近にトラックメイカーがいる、もしくはまったく別に職業作曲家の方の手による、という形が当時は主ですね。
「トラック・メイカーの存在自体が認知されてないから、トラックを作るっていう動機自体が、そういう形じゃないと生まれにくかったと思うんですよね」
 
■当時、ツボイさんは本木雅弘のアルバム「D+F+M」収録の“Desert Lover”にもトラック提供してますね。
「それは、四方義朗さんが当時手がけられてたファッション関係の会社があって、そこがファッション・ショーのプロデュースなんかをされてたんですね。それで、ショーで使う音楽について、桑原茂一さんの立ち上げた日本音楽選曲家協会が関わってて」
 
■名前は非常に固いですが、当時のクラブ系のDJなどによる、サブカルチャー色の強い団体ですね。
「僕もその協会に加入していて、四方さんも当時、本木雅弘関連の仕事をされていて、その流れで僕にお呼びがかかったという。朝本浩文さんとかも関わってたから、クラブ・カルチャー的なモノを取り込むっていう流れだったと思うんだけど、なぜかそこに僕が紛れ込んで(笑)」
 
■言い方は難しいですけど、クラブ・ミュージックを作れるっていう人自体が少なかったから、そういうオファーがあったり、と。それだけまだ若い未発達なカルチャーだったということですね。
「それに、そういう業界の大人たちもクラブによく来て、新しくて面白いことをやってる人を探してるっていう感じもあって。キョンキョン(小泉今日子)もA.K.I. PRODUCTIONSのことを気に入ってよくライヴを観に来てくれたりしたし、その周辺にいたスカパラ(東京スカパラダイスオーケストラ)とも、そういうラインで繋がって、彼らの作品にブレイクビーツの提供をしたり。小沢くん(小沢健二)とかもそうだけど。だから、渋谷系って言われるカルチャーの中でも、その原点というか、ちょっと尖った人たちと、世代的にギリギリ繋がりがあったというか。且つ、その頃からエンジニア的な仕事も始めてて」
 
■「JAPANESE PSYCHO」の前後ですか?
「そうなるかな。といっても、専門学校に通ったり、いわゆる師匠についてハウス・エンジニアから場数を踏んで……っていうんじゃなくて、自分の作品を手がけながら独学で学んでいった感じですけど。ただ、そういった作業が出来て、フリーで、クラブ・カルチャーも分かってるっていう人がそんなにいなかったし、音も作れるし……っていうので声は色々かけてもらって」
 
■ツボイさんはエンジニアリングに関してはまったく独学だったんですか?
「そうですね。この都立大学のRINKY DINK STUDIOでエンジニアとしているのも、ここにお客さんとして作品を録りに来たときに、このスタジオのエンジニア・スタッフがいろいろ僕に作業を教えてくれて、そのまま、気がついたらいまだにここにいるっていう(笑)」
 
■タハハ。
「『JAPANESE PSYCHO』は上原キコウさんっていう、僕の師匠と呼んでるエンジニアさんに手がけて頂いてるんですが、その方に教えてもらった感じですね。ただ、教えてもらうって言っても、ちゃんとステップを踏んで教えてもらうというよりは、見ながら/聴きながら学ぶというか。だから、ほとんど独学ですね。あとは『HIP HOPの音』を作れる人がいなかったっていうのが、エンジニアを始めた大きなキッカケですね。誰もいないから、自分で研究しながらやるしかなかった。普通のエンジニアさんは、下(低音域)を出しすぎないようにしますよね、特に当時は。でも、そうしないとHIP HOPの音にならない。だから、そういった部分を好き勝手にやるっていうのが、自分でエンジニアリングをするってことだったし、それが出来るのがRINKY DINK STUDIOだったんですよね。それで、仕事として、HIP HOPの音を求められてエンジニアリングをしたのは、石田さんの『ホームシック』(95年)でしたね」
 
■その当時に影響を受けたエンジニアはいましたか?
「DJ PREMIERにとってのEDDIE SANCHOだったり、トライブにとってのBOB POWERだったりっていう存在はいたけど、エンジニアで名前が前に出るのはその二人ぐらいだったから、エンジニアに注目するというより、この曲はカッコ良いから、こういう質感にするためには……って、曲単位で考えてたと思いますね。その当時『キックはこういう音にしてくれ』みたいな注文をみんながし出した時期だったし、北ちゃん(KZA:四街道ネイチャー)なんかは特にそれがうるさくて。それで、もっとエンジニアリングについても研究するようになったんですよね」
 
■繰り返しになりますが、元からエンジニアを目指されてたわけではなかったんですね。
「そうですね。でも、みんなそうだと思いますね。D.O.I.君もそうだし。彼がINDOPEPSYCHICSで動いてるときに、ウチのスタジオに来たんですが、そのときは音も作って、グループのエンジニアリングもっていう感じだったから『(INDOPEPSYCHICS以外でも)エンジニアはやるの?』って訊いたら『まだちょっと分からない』って感じだったんですよね。だけど、その後に『面白くなってきた』って話で彼もエンジニアを始めて、それでBUDDHA BRANDを手がけたり。そうやってみんな独学から始めてった人が、傾向として多いと思う」
 
■やはり、共通言語というか、音に対する共通認識があるのが大きかったし、それが求められたというか。
「そうだと思いますね。だけど、僕の場合はHIP HOPだけっていう固執はないので、当時からロックもポップスも手がけるしっていう感じで。でも、そこで手がけるときに、例えばロックのアーティストだったら、このグループは原点にビートルズがあるなと思ったら、そういう音に近づけたり。そういう感覚は、HIP HOP的だと思いますね。そうすると、当時使ってた機材を引っ張ってきたりするんで、ますます知恵もついて、どんどんエンジニアリングの方に進んでいったというか」
 
■それには、様々な音楽を聴かれてきたというアーカイヴが重要になってきますね。
「だと思いますね」
 
■その意味では、ツボイさんがエンジニアをされた、かせきさいだぁさんの「かせきさいだぁ≡」などは、今から振り返ると、HIP HOP的なモノと、ポップス的なモノの折衷の元祖的な作品とも感じられますね。
「1stでエンジニアを頼まれたのがしっかり繋がった最初だと思いますね。それで、“さいだぁぶるーす”のトラックも提供して、ライヴのDJもやって……っていう流れで。その前に、かせき君が組んでたグループ:TONEPAYSがメチャクチャ好きだったんですよ。ナイチョロ亀井くんのトラックのセンスも、あの当時は誰も見向きもしてなかったTRACY CHAPMANだったり、ピチカート・ファイヴを使ってみたりとか、そういう感覚が近かったんで、仲良くなって」
 
■LBと言えば、スチャダラパー「Cycle Hits〜remix Best Collection」(95年)収録の“Little Bird Strut Remixed by Illicit Tsuboi (A.K.I.PRODUCTIONS)”という、これまたリスナーにトラウマを与えまくってるリミックスも手がけられてますね。
「あれは、単純にふざけて遊んでたら出来て、それがOKになったというだけで(笑)」
 
■タハハ。やっぱり。
「あれもメンバーに内緒で作ったリミックスですね」
 
■しかも内緒だったんですか(笑)。90年代後半は、かせきさんやECDさんのプロデュースを手がけられますが、その後、2000年代に入ると、2003年のGO FORCEMENの“COMBO”まで、3年近くトラック・メイクのお仕事をされていないようですが。
「2000年付近が、記憶がスパッと抜けてるんですよね。多分、その時期はエンジニアの仕事が主だったのかもしれないんだけど、プロデュース・ワークはやってないと思う。SHAKKAZOMBIEのエンジニアだったり、時間がかかる仕事が多かったんで、そっち側が忙しくてプロデュースはそんなに出来てなかった気がするんですよね」
 
■なるほど。では、次回はエンジニアリング/プロデュースなどが本格化してきた、2000年以降のツボイさんの動きと、そこと密接に関わるエンジニア/プロデュースについてお伺いさせて頂きたいと思います。
 


 
 
Illicit Tsuboiプロフィール
1970年生まれ。KCDとのタッグを組んだDJユニット:GOLD CUTでの活動を皮切りに、A.K.I. PRODUCTIONSとしてアルバム「JAPANESE PHYCHO」のリリースなどを展開。以降、キエるマキュウへの参加や、Libra Recordsの諸作、RHYMESTER「ダーティーサイエンス」でのプロデュース・ワークなど、トラック・メイカーとして数々の作品をプロデュース。
国内屈指のロック/HIP HOP系サウンド・エンジニア、サウンド・クリエイターとしても活躍し、ECDとの共作とも言えるアルバム制作や、SIMI LAB、CAMPANELLAなど、ニュー・カマーとの作品制作にも積極的に関与。また、二階堂和美やMANGA SHOCK など、ポップ/ロック系まで、アンダーグラウンド/オーヴァーグラウンドを問わず、幅広いアーティストを手がける。
DJとしてもかせきさいだぁのバックDJを90年代には手がけ、00年代以降も、ECDやキエるマキュウのDJとして活動。「ステージにて観客をアジったり、ターンテーブルを破壊したり火をつけたり、度の過ぎたヴァイナル愛によってレア盤を割ってしまったりと、異様なまでの存在感を見せつけるライヴDJとしても有名」と、オフィシャルのパーソナル・データには書かれているが、その説明に間違いはない。国内屈指のレコード・コレクターでもある。