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BEAT SCIENTISTS 〜HIP HOPのおとづくり〜 VOL.8 feat. DJ WATARAI(前編)

インタビュー:高木“JET”晋一郎
写真:cherry chill will



 KING OF DIGGIN' PRODUCTION(以下KODP)のメンバーとして、最初期にはKODP周辺の作品を手がけ、それ以降も数々のアーティストの作品にトラックを提供し、2010年代に入ってもRHYMESTER“ラストヴァース”など数多くの印象的なプロデュース作品を手がけるDJ WATARAI。そしてHIP HOPのみならず、MISIAやMay J、MAY'SといったアーティストのR&B作品のプロデュース/リミックス・ワークも手がけ、幅広い作品制作を展開している。
 
 そういった手数やリリース数の多いプロデューサーに対して、“職人”という言葉を使いがちだが、果たしてDJ WATARAIは“職人”なのだろうか。確かに、アーティストの幅広さと手がける内容のヴァラエティ、そしてキャリアの長さから、ザックリとだけ捉えれば“職人的”と言えなくもない。それは、フル・プロデュースよりも多くのアーティストへの単発的/散発的なトラック提供という部分からもそう考えられる。しかし、改めてDJ WATARAI作品をひとつの固まりとして捉えたとき、そこに通底する、ドラマティックさであったり重層的な構造、常に進化する鳴りと展開からは、職人的とは言い難い“WATARAI節”が現われる。
 
 今回は、DJ WATARAIのキャリアやプロデュース感覚、方法論も含めて、多角的に前後編で語って頂いた。
 
 
■まず、ワタライさんの音楽的な萌芽から伺いたいんですが、音楽的な経験はありましたか?
「ピアノを習わされてましたね。3歳から中学校上がるぐらいまで。でも、その経験が生きてるかって言われたら……鍵盤を触るのに抵抗がないってぐらいで(笑)。だから、全然弾けないんですよね」
 
■では、HIP HOPとの出会いは?
「中学に入ってからですね。地元の友達が聴いててっていう、ありきたりなパターンで。宇田川町の交番の前にあるゲーム・センターって、昔はDJブースがあって、DJが生で回してたんですよ。リクエストも出来て。それで、友達がRUN-DMCの“IT'S TRICKY”をリクエストして、それがかかったときに、『なんだこれ!カッコ良い!』って。それが中学一年のとき、86〜7年頃でしたね」
 
■“IT'S TRICKY”にピンときた印象って憶えていますか?
「とにかくドラムが太くて、『何だこの音は!』って部分でしたね。ラップがどうのっていうより、単純に音がカッコ良いって思ったのを憶えてます。『聴いたことない、この刺激的なリズムはスゴいぞ!』って。僕らの時代は『ベストヒットUSA』(註:小林克也司会の、『ラジオ&レコーズ』及び『ビルボード』のデータを元にしたアメリカのヒット・チャートを紹介するTV番組)があったから、CYNDI LAUPERとかNEW KIDS ON THE BLOCKが流行ってるのを知ってたし、洋楽はなんとなく耳に入ってきてたんだけど、こういうサウンドは初めてで」
 
■邦楽はあまり聴いてなかったですか?
「そうですね。あんまり聴いてなかったですね。中学に入ると周りがみんな洋楽を聴きだしたんで、その影響もあって」
 
■そこからずっとHIP HOPという感じですか?
「並行して色んな洋楽を聴きながらって感じで、HIP HOPもありつつって感じでしたね。でも、中学3年のときに初めて新宿のディスコに行って、そこでユーロ・ビートがかかってて、そこからユーロにハマるんですよ」
 
■へ〜。
「当時、新宿に東亜会館っていう、ビルまるごとディスコ、フロアごとにディスコっていう場所があったんですよ。そこの『CH-GREECE』ってディスコがユーロ・ビートに強くて。KYLIE MINOGUEとかRICK ASTLEYが普通にチャートに入ってた時代だから、洋楽の流れでユーロ・ビートは耳にしてたんだけど、ディスコで聴いたことで一気にハマったんですよね。DEAD OR ALIVEとか。そこから二年ぐらい、どっぷりユーロ・ビート時代があるんですよね。でも、メインはユーロだったけど、今ほどジャンルが細分化してなかったから、みんなゴッチャに聴いてたし、HIP HOPもSALT-N-PEPAとかTONE LOCみたいにBPMが早めなモノも多くて、その辺が一緒にディスコでかかってたんで、『ディスコで一括り』っていう感じでもあったんですが」
 
■当時、ご自分でもレコードを買われてました?
「そうですね。レコードがまだ主流の時代だったんで。買ってたのはTOWER RECORDS、渋谷と六本木のWAVE、それから渋谷LIVERPOOLですね。ターンテーブルを買ったのは、レコードが中心だったっていうのもあるけど、“IT'S TRICKY”をかけてた友達の兄貴がDJで、そいつの家にDJセットがあったんですよ。それで、そいつはCJ MACKINTOSHのスクラッチを真似したりしてて。それを観て、単純にそれがやってみたいなと思って、ターンテーブルとミキサーを買ったんですよね。それが高校一年なんで、89年か90年ですね」
 
■やはり、渋谷周辺のご出身だと、中高生の頃からディスコに行ったり、DJをやってる人もいたり、新しいモノを受け入れる環境がかなり早い時期から身近にあったんですね。
「その当時、世の中的にはイカ天ブームで、世間的にはみんなバンドやってたはずなんですけど、僕の周りはバンドやってるのはほぼいなかったんですよね。自分の周りは、兄貴がDJだったり、洋楽聴いてたりっていう奴が多くて。バンド系をやってるのはひとりだけいたけど、ひとりしかいないからバンド組めなくて、孤独にベースの練習してましたね(笑)」
 
■その当時の話だと、周りはみんなバンドで、DJ系をやってるのは全然いなかったって話はよく訊きますけど、ワタさんの周りはその逆だったんですね(笑)。
「そうかもしれないですね。自分としては、ディスコで踊るのがとにかく楽しくて。バブルの感じもあったし、華やかだったから」
 
■もうダンスはやられてたんですか?
「まだですね。で、ユーロ・ビート・ブームが落ち着いたときに、BOBBY BROWNブームが始まって、ニュー・ジャック・スウィング(以下NJS)でがっつりブラック・ミュージックにハマってくんですよね。並行して『DADA L.M.D』ってダンス番組が始まったのもあって、友達と一緒にダンスを初めて。それが高校二年ぐらいですね。NJSにハマったのと、ダンスを始めたのは、ディスコで流行ってたステップがNJSに付随してたっていうのもあったし、『DADA L.M.D』とか『ダンス!ダンス!ダンス!』とか、ダンス番組もNJS中心だったのも大きかったと思いますね。HIP HOPもHEAVY Dみたいに、NJSを取り入れたモノが多かったし。そこからは、ダンスを中心に音楽を聴く……というか『DADA L.M.D』でかかってた音楽を追っかけてたって感じですね」
 
■DJは始められていたんですか?
「自分で聴いたり、友達に渡すためにミックス・テープを作るぐらいですね。本格的にDJに進んだのは、高校卒業する間際に、『DADA L.M.D』に出てたDJ KEN-BO君のアシスタントをするようになってからですね。KEN-BO君は番組の中で、DJもダンスもやってたから、ダンス・パートになるとブースが空いちゃうんで、そのときに代わりに音出したりするアシスタントを、高校3年の終わりぐらいにやるようになって」
 
■それはどういった経緯で?
「話は遡るんですけど、僕らがダンスを始めたきっかけは、地元の先輩がZOOの人だったっていうのもあるんですよ。その人のつてで、ZOOの人がやってたダンス・スクールに僕らも通うようになって。そこで、ZOOの人たちと仲良くなったんです。その流れで、ZOOを手がけてた美容師の方がいるんですけど、その人の家に僕らも遊びにいくようになって。そこには色んな人が来てたし、DJセットも置いてあって、そこでスクラッチしたりしてたんですよね。それで、『DJ出来るなら手伝ってよ』ってことで、ZOOが出てた『DADA L.M.D』に出入りするようになって、っていう感じですね。その家にはZOOはもちろんいるし、DJ KENSEI君がいたり、DJ BEATさんがいたりっていう状況もあって」
 
■すごい状況ですね(笑)。
「僕が一番歳下で……って言っても、KENSEI君が23歳ぐらいだったから、まだ全然若かったんだけど、そういうところに混じっていられたのは大きかったかなって。それで、『ダンスよりDJの方が面白いな』って思ったり。それぐらいになると、KID CAPRIやRON-G、FUNKMASTER FLEXのDJの作品が入ってきたり、CAPRIやFLEXも来日して。それを観に行って、『DJってスゴい』って、そのカルチャーを目の当たりにして痛感したんですよね。ただ、当時は日本ではディスコ的なDJはいたけど、まだ(今の意味での)DJっていう職業が成り立ってるわけではなかったから、DJになろうって気はそんなになくて。だから、『クラブでDJしたい』っていうよりは、そういう場で一緒にスクラッチしたりするのが面白くて、『DJっていいな』って思ったりって感じですね」
 
■そのときはもうHIP HOPにドップリという感じですか?
「もうそうなりつつありましたね。A TRIBE CALLED QUESTの2nd『THE LOW END THEORY』や、PETE ROCK & C.L. SMOOTH『MECCA AND THE SOUL BROTHER」、SHOWBIZ & A.G.「RUNAWAY SLAVE」が出たり、ニュー・スクール勢が出てきたりって時期で。時代的にも、そういうモノがNJSよりもカッコ良いって流れになってきて、プロデュース・ワークについても、TEDDY RILEYよりもQ-TIP、PETE ROCKだろうって言われるようになって」
 
■その意味でも、音楽の流行の流れを見ていたというか。
「そうですね。音楽の流れも、LAが発信源だったのが、急にNYになったり、並行してダンスもNYの流れになったんですよね。それに着いていったというか」
 
■ラップには向かわなかったんですか?
「ラップはまったく興味がなかったですね」
 
■90年台前半の時点で、ラッパーとの繋がりは?
「まったくなかったんですけど、当時ツルんでた人が、MASAO君(註:MICROPHONE PAGER)とタケジ君(註:KRUSH POSSEに参加していたダンサー)と繋がってて、そこで二人と知り合ってたんですよね。それである日、『KRUSH POSSEって知ってる?』って訊かれて。当時の僕は、日本語ラップって言うと、スチャダラパーとか高木完さん、B-FRESHは名前は知ってたけど、聴いたことがなくて。KRUSH POSSEも名前は知ってるけどって感じだったんですよね。で、『名前は知ってますよ』って答えたら、自分たちがダンサーとして加入してるから、ライヴを見に来てよって言われて、下北沢のZOO(註:後のSLITS)でやってたイヴェント『SLAM DUNK DISCO』に行って。それが初めて観る日本語ラップのライヴでしたね。当時って、今みたいに同じクラブでいろんなイヴェントがあるって状況じゃなくて、日本語ラップのイヴェントはZOOか、新宿のミロス・ガレージぐらいで。僕らが遊んでたのは六本木の方だったんで、まったく交流がないっていうのもあったから。それで、そのときに初めてMURO君と出会ったんですよね。それも高3の終わりぐらいですね」
 
■初めて日本語のラップを聴かれての印象は?
「KRUSH POSSEはとにかく刺激的で感動した覚えがありますね。そのときはTWIGY君も出てて。あの日本語に聴こえないっていうか、外人っぽいラップにはとにかく驚いて」
 
■TWIGYさんがKRUSH POSSEのライヴに参加してたのは驚きです。
「P.H.FRONとTWIGYはサイド・マイクでいましたね」
 
■ペイジャーの萌芽がそこにあったんですね。
「僕も高校卒業して、MASAO君やタケジ君とツルむ流れで、MURO君とも会うようになって。それで、MURO君と僕の家が近かっていうのもあって、よくMURO君の家に遊びに行ってたんですよ。
 
■当時のMUROさんの印象は?
「今とあんまり変わらないですね。当時は6畳のワンルームでDJセット/レコード/スニーカーの山/洋服……終了みたいな(笑)。で、MURO君の家で『HIP HOPのネタ』って概念を教わるんですよね。それまで僕はダンスとDJをやってたから、そういう構造にあまり興味がなかったし、HIP HOPがサンプリングで出来てるってことすら知らなかった。だけど、MURO君が家でBOB JAMESを聴かせてくれて、『HIP HOPはサンプリングから出来てるんだ』ってことを教わり、そこにいたく感動したんですよね。同じ時期に、『MECCA AND THE SOUL BROTHER』が出たばっかりの時に、MTVでPETE ROCK特集があって、PETE ROCKのベースメントに行くっていう場面があったんですよね。それで、PETE ROCKがE-mu SP-1200のボタンを押すと、スゲェカッコ良いビートが流れて、それに合わせてスクラッチするっていうシーンがあったんです。それで『あの箱を買うと、こういうカッコ良い音が鳴らせるっぽい!そして、ストップしないかぎり延々ビートが流れるから、延々スクラッチが出来る!』って思ったんですよ(笑)。そのビートはメチャクチャカッコ良いんだけど、いまだにリリースされてなくて、それで、『俺もあんなカッコ良いビートでスクラッチがしたい』って思ったのが最初でしたね」
 
■MUROさんの周りにもトラック・メイカーはいらっしゃったと思うんですが。
「DJ GO君がペイジャーの曲を作ってたし、僕もペイジャーの曲でスクラッチしてるんで、レコーディングには行ったりして、現場は目の当たりにしてるんですけど、当時って、サンプラーと電卓みたいなシーケンサーで地味に作るような時代で、観てても全然興味が湧かなかった(笑)。何の作業か分かんなかったんですよ。でも、PETE ROCKのはボタンを押したら曲がスカッと流れたんで、衝撃があった(笑)。単純にそこですね。それでSP-1200を買ったんですよね」
 
■値段はいくらぐらいでしたか?
「新品で、しかも日本流通が始まったばかりだったので、かなり高かったですね。それで、『NYに行きたい』って親を騙して、その金で買いましたね(笑)。だから、当時でNYに行けるぐらいの額でしたね。それが94年ぐらいだったかな……20歳のときだったと思います」
 
■買われてすぐにオリジナル・トラックの制作に入られたんですか?
「いや、全然。ネタも全然持ってなかったんで、あり物のHIP HOPの曲をサンプリングして組み替えたりしてましたね」
 
■ある意味ではリミックスというか。
「そんな大層なものじゃなくて、自分のやりたいことのメインがスクラッチだったんで、それに合わせたビートが欲しかったんですよね。それを作ったのが最初の頃で」
 
■どんな曲を組み替えていたんですか?
「例えば……一番最初にやったのはSLICK RICKの“CHILDREN'S STORY”のインストが欲しかったんだけど、リリースされてなかったんで、原曲の声が乗ってない部分をSPで継ぎ接ぎして、インスト・バージョンを作ったり。あと、SHOWBIZ & A.G.“UNDER PRESSURE”の頭のドラムを単音で取っていって、それを組み替えて、違う上ネタを乗せたりしてましたね」
 
■「ULTIMATE BREAKS & BEATS」とかは買われましたか?
「ウルチは、MURO君に『買っちゃダメ』って言われてたんですよ(笑)」
 
■「ダメ」」ってスゴいっすね(笑)。
「DIAMOND & THE PSYCHOTIC NEUROTICS“BEST KEPT SECRET”で、『ブレイクビーツ(集)を使ったらダメだ』みたいなこと言ってるじゃないですか。それもあって、『ウルチは絶対ダメ』っていう教えがあって(笑)。だから、当時は買ってないんですよね。買ったのも、THE HONEY DRIPPERS“IMPEACH THE PRESIDENT“とか、(レア盤なので)クラブ・プレイで使うには怖いレコードの代わりに使うために買ったり」
 
■タハハ。では、ネタを掘り出したのはどんなタイミングでしたか?
「ペイジャーが解散して、MURO君がソロになったんだけど、トラックを作ってたDJ GO君があまり活動出来なくなり、トラックと組み立てられる人がいなくなっちゃったんですよね。それで、『ワタライは機材も持ってることだし、本格的にトラックの制作をやってみれば?』ってMURO君から言われて、『じゃあ、やってみようか』って。それで、同じ時期にMURO君にNYに連れてってもらうんですが、そこで色んなレコード屋さんに行ったり、バイヤーさんに会って、色んなネタを手に入れたんですよね。それが、最初にネタを手に入れたタイミングだと思う」
 
■そこで買ったのはJAMES BROWNとか定番ネタですか?
「いや。ブレイク何枚かと、PETE ROCK & C.L. SMOOTH”THEY REMINISCE OVER YOU (T.R.O.Y.)”ネタのTOM SCOTT“TODAY”を買ったのを覚えてますね。既に使われてるネタだけど、日本では手に入らないモノを買った記憶があります」
 

MURO & DJ WATARAI

 
■MUROさんとのお仕事といえば、96年リリースのMURO“三者凡退”のプロデュース・クレジットは「MURO+WATARAI FOR KING OF DIGGIN' PRODUCTION」になっていますね。あの制作の経緯はどういったものだったんですか?プロデュースとしては一番早いクレジットになるかと思うんですか。
「NYから帰ってきて、MURO君がソロ作品を作るって話になって……」
 
■ええ。
「……っていう」
 
■え!そんなアッサリ!(笑)。どんな流れで作ったのかもうちょっと詳しく教えて下さい。
「STILL DIGGIN' RECORDSからMURO君の12インチを出すって話になったときに、トラックもオリジナルで作ろうってことになったんですよね。だけど、SP-1200だけじゃ無理だったんで、サンプラーとしてAKAIのS950を買って、その二台を基本に作りましたね。『上ネタはこれで、ドラムはこれで……』っていうサンプルのチョイスはMURO君の指定で、それを組み立ててって感じでしたね。本格的なレコーディングは初めてだったんだけど、当時エンジニアを始めた友達がいて、そいつのスタジオで制作して」
 
■オペレーター/マニュピレーター的な動きも含めての制作というか。
「そうですね。上ネタをループして、ドラムを叩くぐらいの使い方は出来たんで」
 
■使い分けはどのように?
「ドラムはSP-1200で、上ネタはS950でそれを同期させてって感じですね」
 
■自分の作品がリリースされた感慨はありましたか?
「それよりは自分的に、トラックを作ってレコーディングをするってこと自体が大それたことだったんで、そこへのプレッシャーがスゴかったですね。『ちゃんと出来るだろうか』っていう。しかもMURO君っていう先輩の作品だったんで、制作中は不安の方が大きかったですね」
 
■MUROさんとはかなりの量の時間を過ごされてたんですね。
「あの頃は、MURO君とばっかりいた記憶がありますね。大学終わったらそのままSTIL DIGGIN'に行って、店が終わったらMURO君の家に行ったり、クラブ行ったり。そこでとにかく“音楽”を教わりました」
 
■同時期にBUDDHA BRAND“人間発電所 (暖炉REMIX)”も手がけられていますね。また、オリジナル・ヴァージョンの“人間発電所”の制作にもワタさんは参加されているんですよね。
「NYに初めて行ったときに、コンさん(D.L)に会ったんですよね。っていうのは、MURO君がNYに行くときは、いつもコンさんがアテンドしてたんで、その流れでお会いして、日本にいるときから、MURO君とコンさんはよく電話してたんで、存在だけは知ってたんですけど、お会いしたのはNYで。それで、そのときにNYのスタジオで、ブッダが既にレコーディングしてたんですよね。そのときは“ILL伝道者”とかを録ってて。それで『ブッダはこれから日本で活動しようと思うんで協力してくれないか』って話も受けてて。で、ブッダが日本に帰ってきて、オリジナルの“人間発電所”作るから手伝ってくれないかって話を受けて、制作してたRINKY DINK STUDIOに行ったら、あの上ネタが既にループされてたんですよね。それで『ドラムを足してくれないか』って言われて、それでドラムを打ったんですよね」
 
■スゴい重要なポイントだと思ってた2曲について、かなり淡泊なご説明を頂いて、なんかショックです(笑)。
「あはは」
 
■でも、クラシックはリスナーと未来が決めることだから、制作中はそれぐらいのテンションなんでしょうね。“人間発電所”のドラム・キットは向こうが持っていたんですか?
「いや、機材ごと持って行って、そこで組み立てましたね」
 
■その意味では、ドラム・プログラミングとして参加されたということになりますね。
「細かくは覚えてないけど、そうだったのかな。とにかくネタだけループしてたのだけ覚えてますね」
 
■“人間発電所”のドラムって、オーソドックスというよりは、キックが多くてハネる感じがあったり、当時としてもちょっと変わってますよね。そういった部分について、ブッダ側とディスカッションはありましたか?
「いや、打ち込んだらそのままOKだった記憶がありますね。“人間発電所 (暖炉REMIX)”も、その日に作ったんですよね。そっちもブッダ側がネタを指定して、それを僕が組み立てるって感じで」
 
■クレジットにはDJ WATARAI MIXとなってますけど、リミックスとはちょっと違った方向性だったんですね。
「そうなりますね」
 
■その意味では、パートを手がけるという部分が強かったんですね。
「他に出来る人がいなかったっていうだけじゃないのかな。たまたまそこにいたというか(笑)。でも、ブッダに関してはNYで会った時点で、デモを渡してるんですよね。それがよかったのかもしれない」
 
■リミックスと言えば、98年リリースのMISIA“つつみ込むように... (DJ WATARAI REMIX feat. MURO)”がシーン的にも世間的にも、インパクトの大きなお仕事だと思いますが、あの作品を手がけた経緯は?
「二十歳ぐらいのときから、DJ HASEBE君と芝浦の『GOLD』でDJをやってたんですけど、そこで働いてた方が『GOLD』を辞めて、その後にダンス・ヴィデオを作ったり、制作側に回ったんですよね。それで、その方が、アーティストを手がけたいって、福岡でオーディションをやって、そこで見つけたのがMISIAだったんですよ。それで、『MISIAの“つつみ込むように...”をリリースすることになったんで、『お前リミックスやれよ』って言われてやったのが、あのリミックスなんですよね」
 
■ハハハ!またも淡泊ですね(笑)。ただ、歌モノのリミックスは初めてですよね。
「そうです。だから、なんで俺に振ってきたかも分かんないんだけど(笑)、まあ、『やってみます』って」
 
■松井寛さんの手がけるオリジナルの編曲よりも、リミックスは非常にHIP HOP的なアプローチの曲だとは思うんですが、それでもやはり、HIP HOPよりもメロディ感やコード感が重要になってくると思うんですが。
「友達にキーボードを弾いてる人がいたんで、その人に手伝ってもらって出来たんですよね。コードとかは、その人に取ってもらって。だから、あのリミックスに関しては、コードはその人に弾いてもらって、僕は殆どドラムを打ってるだけなんですよね。ドラムとベースとキーボードっていう、構成がシンプルなのは、それ故なんですよね」
 
■同じ時期ですと、サウンド・トラック「hood」収録のMURO & DJ WATARAI“半透明”も印象が強かったんですよね、あの上モノのスウィング感や、小節が6小節で展開していく部分にネクスト・レヴェルを感じて。その意味では、ワタさん的に「掴んできた」と思ったタイミングはありましたか?
「そんなにないかな……その頃って実は、トラック・メイカーとしてやっていこうって気はそんなになかったんですよね。でも、MURO君と作品を作ったっていうことで、勝手に注目されちゃったんですよね。『なんだあのMUROの連れてきたDJは』って(笑)。そうやって勝手にハードルが上がっちゃって」
 
■「まだ見ぬ大物」にイメージとして高まってしまったと。
「そうそう。何も出来ないのに。しかもMISIAも売れちゃったから、よく分からないまま、なんか仕事だけどんどん来ちゃったって感じなんですよね、この頃は」
 
■心の準備が出来てないままだったんですね。
「準備どころか、まだ学生だったし、トラックを仕事として作るなんて思ってもないし(笑)」
 
■それまではMUROさん周りの仕事がほとんどですもんね。
「それがMISIAをやったことで、R&Bのリミックスもどんどん舞い込んできて」
 
■なるほど。では次回は具体的な制作の進め方から、2000〜10年台のプロデュースやリミックスのお話を伺えればと思います。
 
 
DJ WATARAIプロフィール
DJ/トラック・メイカー/プロデューサー/リミキサーと、多岐にわたる活動を展開するDJ WATARAI。中学時代にスクラッチに興味を持ち、その後、DJ活動を開始。MUROやNITRO MICROPHONE UNDERGROUND関連の諸作など、HIP HOPシーンへのトラック提供はもちろん、MISIAやDOUBLE、AIほかR&B系アーティストへの楽曲提供、リミックスも数多く担当。ジャパニーズR&Bブームの火付け役となった98年のMISIA“つつみ込むように...”のリミックスを皮切りに、日本のR&Bシーンへ多大な貢献を果たしている。
また、OZROSAURUS「Dish and Dabber」など、アーティストのフル・プロデュースも手がけている。