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READ THE "LABELS"! VOL.3: WDsounds

インタビュー:二木信

 
 WDsoundsは、東京を拠点に活動するHIP HOP/ハードコアのインディ・レーベルだ。2014年の日本のインディ・ラップの最重要作の数枚に入ると書いて間違いのないであろうFebb「THE SEASON」とCAMPANELLA「VIVID」の制作/リリースに携わり、DOWN NORTH CAMP(以下DNC)の真打ち、CENJUの初のソロ・アルバム「CAKEZ」も手掛けている。2011年に、ERA「3 WORDS MY WORLD」をリリースしたのもWDsoundsである。そして現在、クラウドファンディグ形式のプロジェクトで注目を集めるCreative Platform(以下、CPF)と共に、「WDsounds x CPF “5014 COMP MOST WANTED”」を進行中である。
 
 と、数枚の作品を列挙し、最近の活動に触れるだけで、このレーベルが日本のインディ・ラップ/HIP HOPシーンにおいて欠かせない存在であることは理解できる。が、しかし、「WDsoundsって一体どんなレーベルなの?」という疑問を多くのリスナーやファンは抱いているのではないだろうか。実際のところ、僕自身もこのレーベルの歴史について知らないことだらけだった。ということで、多くの謎に包まれたWDsoundsの主宰者である澤田政嗣氏にインタヴューを試みることにした。彼は今年、自身がヴォーカルを務めるハードコア・バンド、PAYBACK BOYSの1stアルバム「STRUGGLE FOR PRIDE」と、J.COLUMBUSというラッパー名義で5曲入りのEP「SUN COLUMBUS」を発表してもいる。
 
 少しだけ説明しよう。レーベルの歴史は2004年まで遡り、最初のリリースはアメリカのクリーブランドのハードコア・バンドの作品だった。つまり、WDsoundsはハードコアのレーベルとして始動している。その後、デスメタル、アフロ・ファンク、ガバ、テクノやハウスなどのダンス・ミュージックといった多岐に渡る音楽性の作品のリリースやイヴェントの企画などに携わっていく。そして、ある時期から、ラップ/HIP HOPの作品を精力的に発表するようになる。WDsoundsの歴史を紐解くことは、ここ10年の東京/日本のアンダーグラウンド・ミュージックの最深部の一端を垣間見ることである、と言っても過言ではない。
 
 さて、WDsoundsというユニークなレーベルはどのようにして生まれ、これまで歩んできたのか。そして、今後どこに向かおうとしているのか。2015年1月にWDsoundsから初のソロ・アルバム「MAKE MY DAY」をリリース予定のDJ HIGHSCHOOLも同席して行なった澤田政嗣氏のロング・インタビューをお送りしよう。
 
 
■まず、WDsoundsを立ち上げるまでの話からしてもらえますか?
「WDsoundsを始める前にOUT TA BOMBっていうカタログ通販をやっているハードコアのレーベルで働かせてもらっていたんです。そのカタログ通販で自分も買ってたから、それもあって入れてもらったんです。だから、最初にOUT TA BOMBでレーベルの仕事をやりましたね。それが21〜2歳の頃です。当時、ERAとかと一緒にやっていたW.O.Bってバンドの作品を、そのレーベルから出すタイミングでもありましたね」
 
■OUT TA BOMBでは結構長く働いていたんですか?
「2年ぐらい働きましたね。OUT TA BOMBとは、考え方や方向性がズレちゃったから辞めたというのもありましたね」
 
■どういった考え方のズレが生じたんですか?
「会社には社長を入れて3人しかいなかったんですけど、カタログ通販をやっていると、3日ぐらい電話が鳴り止まなかったりするんですよ。一日で300枚とか売れるし、そのレーベルから一万枚近く売れた盤も出てましたからね。で、その対応を社長以外の2人でやってたんです。潤った結果、社長は事務所にもあまり来なくなっちゃって、事務所のファックスに車屋からベンツのファックスが来たりしてましたね(笑)。今考えると、その間に本当は外で仕事してたと思うんですけどね。でも、海外のバンドの最新の盤を仕入れて、1stアルバムがすごい良かったら、2ndアルバムが良くなくてもとりあえず良いものとしてオンタイムで売ろうとするようになるんですよ。聴いてないのにレビューを書いて売ったりしてて。でも俺は、『それはダメでしょ』って思ってた。お金がない中で買ったCDで、書いてある内容と全然違ったらダメでしょって。バンドのメンバーが変わったら、音なんて変わるに決まってるじゃないですか。お客さんが買わなくなっていくのも分かったし、売り上げが下がるようになった原因もそれだったと思いますね。ざっくりした流通の仕組みも分かったし、これだったら自分で出した方がいいなって思うようになって、金を貯めてレーベルを始めたんです。その頃は好きなハードコアを広めたいとは思ってましたね」
 
■その話を聞くと、90年代後半のハードコアのレーベルやショップは、お金がそれなりに回っていたということですよね。
「そうですね。特化したものを売っていて、その特化したものを聴いている人が今よりも多かった。すごくヘヴィなのを聴いている人が、もうちょっとロックっぽいものを聴くのも普通だったけど、今はもうちょっと細分化していますよね。ZOZOTOWN(アパレルのオンライン・ショッピング・サイト)も元々はSTART TODAY MAIL ORDERっていうハードコアのカタログ通販で、そこからウェブサイトになっていくんですよ」
 
■なるほど。ということは、WDsoundsは最初はハードコアのレーベルだったということですよね。一番最初にリリースした作品は何でしたか?
「INTEGRITYっていうクリーヴランドのハードコア・バンドの『salvations malevolence』という作品ですね。NYに行ったときに、ニュージャージーのバンドのツアーに付いてボルチモアに行ったんです。そのときに、ある人が、INTEGRITYに俺のことを『あいつはレーベルやってる』と話して、その流れでリリースすることになった感じですね。バンドはもう30年ぐらいやってるのかな?かなり暗黒の音楽で、悪魔教と思われる人がやってるバンドですね(笑)。品番だと002なんですけど、リリースは一番最初です」
 
■そもそもハードコアの何に魅了されて、その世界にどのように足を踏み入れていくようになるんですか?
「最初はハイスタ(HI-STANDARD)とかも観てたけど、若干違和感があったんですよ。当時、西新宿にハードコアのレコード屋が超いっぱいあって、そこにZINEが売ってて、言いたいことをバンバン言いまくってるのが面白かったですね。海外のZINEを読んでもそういう感じだったのも面白かった。『あのバンドは雑誌に載って有名になって、プロダクションがクソになった』みたいなことが書いてある。レビューなのに一切褒めていなくて、貶すことを意見として出してるのが刺激的でしたね。そのZINEを作っていたのが、OUT TA BOMBをやってた周りの人だったりして。その頃、ライヴ・ハウスに友達と一緒に行ってたんですけど、段々みんなが行ってくれなくなったから、ひとりで行って、そういうZINEを配ったり、売ったりしている人と仲良くなったりしてましたね。90年代後半でインターネットもまだ発達していないから、レコード屋に行って音楽を教えてもらったり、カタログ通販でCDやレコードを買ってましたね。OUT TA BOMBの場合は、カタログのパンフレットが送られてきて、現金書留で金を送るんですよ。希望を第3位まで書いて。第1希望がないと、第2希望のレコードが届けられるんです。Tシャツはデザインも載っていないけど、希望して送る、みたいな(笑)。高校生で金がないから、凄まじいレコードが届いたりしても、それをひたすら聴いてましたね。ライヴ・ハウスに行くと、HIP HOPで言うミックステープみたいな謎のコンピを作ってる先輩がいたりして、知り合いになると、そういうコンピをもらったりもしてましたね。それと、謎に海外とテープのトレードとかをみんなやっていて、リリースされていない音源を持ってたりするんですよ。それをダビングしてもらうために仲良くならないといけなくて(笑)、その頃はそういう触れ合いが普通でしたね。だから、突っ込めば突っ込むほど面白かった」
 
■どんなレコード屋に行ってたんですか?
「昔は、西新宿のNAT RECORDSの前に新宿のLOFTがあったから、LOFTに行く前にレコード屋に寄る感じでしたね。 ALLMANとか、LIKE A EDISONとかVINYL、原宿、渋谷だとUP STATEとかCISCO LOUDにも行ってましたね。それと、自分でもZINEを作ってました」
 
■なんていう名前のZINEですか?
「『SAMURAI ZINE』ってファンジンを最初手伝ってて、作ってる人が旅のレポートを載せたりしてましたね。でも、ケンカ別れして、その後は自分ひとりで『FREE STYLE ZINE』をやってました。4号ぐらいは作りましたね。『SAMURAI ZINE』の人は今は中野で立ち飲み屋をやってて、たまに行きますよ(笑)」
 
■それはいくつぐらいのときの活動ですか?
「19歳か20歳ぐらいで、90年代の終わりぐらいですね。そのとき、バンドもやりたくて、自分はギターも弾けないのに、ギターを弾いてバンドをやってたんですよ。8回ぐらいはライヴをやって、しかも曲も全部自分が作ってた。どうやって曲を作っていたのか全然憶えてない(笑)。耳コピできていない曲の耳コピ・カヴァーとかしてましたね」
 
■90年代は、メロコアの全盛期でもありますよね。そういう時代に、澤田さんのヒーローやスター、憧れの存在はどんなバンドだったんですか?
「PROTECTっていうバンドがいたんですよ。ヴォーカルの人が狂ってる熱い人というか、ストレート過ぎて狂ってるのか分からないんですけど、凄かったですね。そのバンドのライヴに来てる人たちで、ひとつのシーンになっている感じがあった。PROTECTがデカイところに出演するときは、全員で観に行って、ひたすら暴れるという感じでしたね。海外のZINEのレビュー・コーナーにPROTECTが載ってたりしましたね」
 
■その頃は、HIP HOPを聴いたり、HIP HOPの人たちとの交流はなかったんですか?
「BLYYのメンバーの内の3人は中学の同級生で、幼馴染みたいな感じなんですよ。高三の頃とかは、俺がダビングしたハードコアのテープとBLLY のトラック・メイカー/ラッパーのalledが作ったミックステープを交換してましたね。レビューを書いたりもしてました」
 
■そのレビューはどこかに掲載されたりしたんですか?
「いや、ふたりしか読まないですよ(笑)。俺が書いたハードコアのレビューとalledが書いたHIP HOPのレビュー付きのテープを交換してたんです。だから、HIP HOP自体は普通に聴いてて、19〜20歳ぐらいになって、いわゆるクラシックから買ったりしていたら、だいたいalledのミックステープに入っていたヤツだったって感じでしたね。俺はBLYYを通じて、ONE-LAWやKING104に繋がっていくんです」
 
■90年代後半から00年代前半に澤田さんが身を置いていたハードコア・シーン周辺の軸になる、中心となるのはどんなバンドでした?
「NUMBとSTATE CRAFTは二大巨頭でしたね。W.O.Bはそこに属していない感じでやっていて、たまにそのどちらかにライヴに誘われたりもしたんですけど、俺とかはたまに言っちゃいけないことを言うタイプなんですよ。『コンピとかだけ誘われても無理です』とか(笑)」
 
■ははは。W.O.Bのドラマーは、DNCのメンバーであるPENNY-Oさんだったんですよね。
「そうです。最後のドラマーですね。あと、DNCのゆうきもW.O.Bの最後のベースですね」
 


 
■03年の頃の大阪でのW.O.Bのライヴ映像がアップされていますけど、かなり大きな会場でやってますよね。
「あのライヴは大阪のMOTHER HALLでやっているから、1,000人以上は入ってたと思いますね。SANDの周りのGNz-WORDってバンドの人がやってる『HARDCORE PRIDE』ってイヴェントで、GNz-WORDは世代的には一個ぐらいしか違わないんで仲良くなったんですよ。WDsoundsの品番の000がW.O.BとGNz-WORDの『split』ってスプリットCDなんです。だから、バンドとレーベルが同時進行だった感じですね。あと、デスメタルのバンドのリリースもしてますね」
 
■デスメタル!?
「DISCONFORMITYという世界的にも有名な日本のデスメタル・バンドがいるんですけど、彼らの『depravation of stigma』ってシングルですね。メンバーは今日本中に散り散りで住んでますね(笑)。デスメタルって、日本で1,000枚しか売れてなくても、世界で1万枚とか売れてるんですよ。そのCDもヨーロッパで一番売れましたからね。当時はそういう事情を知らなかったから、話していて面白かったし、曲もカッコ良かった。元々知ってたけど、ライヴを観て『すぐに出そう』ってなった気がします。アルバムも出す予定なんですけどね。そのためにリリースしたシングルなんですけど(笑)」
 
■ヨーロッパの人たちはその情報をどこでゲットしてたんですかね?
「デスメタルの人たちは、インターネットを使うのが早かったんですよ。MySpaceよりも前の初期のストリーミングなんかを使ったりしていて、謎のネットワークがありましたね」
DJ HIGHSCHOOL「メタルは理系ですからね。ハードコアは情熱じゃないですか」
 
■メタルは理系で、ハードコアは情熱(笑)。
DJ HIGHSCHOOL「分かりやすく言うと(笑)」
「自分は05〜6年ぐらいの頃は、デスメタルのライヴを観た後にMSCのライヴを観に行ったり、テクノを聴きに行く、みたいな遊び方をしてましたね。『FUTURE TERROR』とかに遊びに行ってた。その頃が一番ぐちゃぐちゃに音楽を聴いてた時期だと思います。その中でもデスメタルは一番独立していて、音楽的にも何かと混ざっていない気がする」
 
■それは音楽的な面ですか?思想的な面ですか?
「いや、俺もハッキリ言って分からないです(笑)。面白いから観に行っていたのと、遊びに行ける場所だったから、遊びに行っていただけと言えば、それだけなんですよ」
 
■周りに澤田さんと同じような遊び方をしている友達って、どれぐらいいたんですか?
「それが藤村くん(澤田政嗣がヴォーカルを務めるバンド:PAYBACK BOYSのギタリスト)とDJ HIGHSCHOOLでしたね。ちょうど、W.O.Bをフェイド・アウトしていく時期に、いろんな面白い場所に遊びに行くようになってましたね。その頃、俺はハードコアのことがすごい嫌いだったんですよ。内情がわかると、言ってることも全部ウソだし、もういいやって」
 
■どういう部分に嫌気が差したり、反発心を抱いたんですか?
「例えば、『AIR JAMはファックだ』みたいなことを言っていたのに、そういうところのバンドと仲良くなると、いつの間にか馴れ合っていくじゃないですか。そういうのが嫌いだったから、聴いていたバンドがそうなっていくのを見ていて、イヤになりましたね。周りの人も若干天狗になっている感じもあった。だから、04〜5年ぐらいにSTRUGGLE FOR PRIDEのライヴを観たのは、自分的に大きな転換点だったんです。『ハードコアは本当にあるんだな』って感じましたね。それで、ひたすらライヴを観に行って、仲良くなって、DJ HIGHSCHOOLとかSEMINISHUKEIとかCIAとか別々のところで知っていたヤツらと一緒に遊ぶようになる感じですね」
 
■なるほど。
「それと、もうひとつの転換点はDJ HIGHSCHOOLがやってるバンド、DREAD EYE『this is for the new breed EP』の7インチを出したことですね。パワー・ヴァイオレンスをリリースする、みたいな(笑)。その後、『DMB capital punishment』ってコンピを出して、そこにSEMINISHUKEIのトラック・メイカー:StarburstとかDJ PKとかBUSHMINDが入ってる。06〜7年の頃、池尻に住んでいて、恵比寿みるくが近かったから、『HOT POT SPOT』や『HARVEST』やMCバトルとかに遊びに行っていて、自分でも音楽的にグチャグチャの『BLACKOUT』ってイヴェントを主催してましたね」
 
■レーベル運営のビジネス的な側面についての話も聞かせてもらいたいんですけど、音楽とお金とレーベル運営については、どのような意見や考えを持っていますか?
「昔は基本的にバイトをしながらレーベルを運営していましたね。ある時期まで、音楽でメシを食ったり、自分の好きなことでメシを食うのは、正直ダサいと思ってたんですよ。OUT TA BOMBで働いていたときとか、働く場所も音楽関係で、遊ぶのもライヴ・ハウスで、最初から最後までそれだと息苦しかったんですよね。でも、途中から考え方が変わりましたね。言ってみれば、自分のレーベルから音楽をリリースするアーティストがいるということは、そのアーティストが自分に音楽とある程度の生活を預けているということですよね。自分は音楽とある程度の人の生活を預かってることになるじゃないですか。だから、自分がフルに動くために、そのためのお金を音楽で作らないといけないし、お金の作り方は関しては考え方もやり方も変わってきているところがありますね」
 
■WDsoundsのレーベルの哲学や理念があるとしたら、それは何だと思いますか?
「自分の中に迷いはないんですけど、俺自身も何をやっているのか分からないときがありますね(笑)。感覚のままに進んで、作っていく感じなので。当初は、WDsoundsは自分のプライヴェート・レーベルみたいなイメージで、INGLORIOUS BASTARDSをリリースするときに立ち上げたPRESIDENTS HEIGHTSがHIP HOPのレーベルという分け方をしていましたね。HIP HOPは『裏方の文化』みたいなところがあるじゃないですか。HIP HOPとハードコアが違うところは、PUFF DADDYみたいな仕掛け人がいて、分業体制があるところだと思うんですね。そこで、お金も回ることが前提になってる。そういうシステムを音楽業界に対してぶつけているのがHIP HOPだと思ってたから、最初はお金の面でもWDsoundsとPRESIDENTS HEIGHTSを分けていたんですよ。PRESIDENTS HEIGHTSは俺とTONO(SAPIENS)のレーベルで、TONOの『presidents heights』を出したところで、一度PRESIDENTS HEIGHTSは止まっていますけど、自分の中では途中からは全部合体させた感じです。PRESIDENTS HEIGHTSを立ち上げた頃は、TONOも板橋に住んでたし、よく池袋のBEDに溜まっていた感じですね」
DJ HIGHSCHOOL「だから、遊んでいるところがレーベルの軸になりますよね」
「それはあるね。D.O.D『digital dope bombing arrests』っていう、ガバとハードコアのアルバムを出したんですけど、その頃はみんな4つ打ちとかで遊んでいたし、そういう時期だったと思います。で、同じ時期に、元々リーダーのことは知っていたけど、TYRANTとかと仲良くなって、HIRAGENを聴かせてもらって、ぶっ飛びましたね。だから、PRESIDENTS HEIGHTSをやってるときは、TYRANTのATOSのレーベル:RCSLUM RECORDINGSと共同でリリースしているやつもある。CAMPANELLA & TOSHI MAMUSHI『CAMPY & HEMPY』もそうだし、YUKSTA-ILL 『tokyo ill method』(本作は厳密にはWDsoundsとRCの共同リリース) や『QUESTIONABLE THOUGHT』もそうですね」
 
■ハードコア・シーンで出会ったり、仲良くなった人たちは、WDsoundsのHIP HOPのリリースに反応を返してくれたりもしますか?
「それはモノによりますよね。ただ、例えば、TYRANTの地元の三重の鈴鹿に面白いビルがあって、FACECARZっていうハードコア・バンドのヴォーカル(TOMOKI)がビルの1階でKICKBACKっていう洋服屋をやっていて、2階が確かスタジオで、3階にクラブがあるんですよ。そこに全てがある。KOKIN BEATZのスタジオとかタトゥー・スタジオもあるんです。YUKSTA-ILLはそこら辺が地元ですね。だから、そういう風にひとつの場所に全てが集約されてくるんです。HIP HOPもあれば、レゲエもあれば、ハードコアもあって、『アイツの音楽がヤバイらしい』『アイツのラップがヤバイ』ってなるのが普通なんですよ。細分化できないから、がっちりしている」
 
■それにしても、WDsoundsの周辺の繋がりや関係は、濃厚でディープですよね。
「バンドをやっていたのがデカイと思うんですよ。W.O.Bを呼んでくれたりする人がいて、自分たちも相手がカッコ良かったら呼び返していたし、W.O.Bで北海道から福岡まで行っていますからね」
 
■あと、WDsounds周辺には良いDJが多いですよね。イカツいイメージがありますけど、ミックスCDにしても、選曲はスウィートでメロウだったりするし、スウィート・ソウルとか古いR&Bとかファンクとか、音楽の幅が広いというのも特徴ですよね。
「HIP HOPがない時代にソウルやファンクを聴きに行ったり、JBのライヴだったりを観に行っていた街の連中は、不良だったと思うんですよ。FUNKADELICもそういう感じだったと思うし。先輩のスキンヘッドから教えてもらったんですけど、昔はスカとドゥーワップを聴いてた話とか痺れますよね。俺の中にはそういう妄想と、俺が今BEDで主催している『NEW DECADE』は『SCRAMBLE CROSSING』のイメージでやっているという妄想ですね。敬意と妄想」
DJ HIGHSCHOOL「後、俺が傍から見ている印象は、『これは売るぞ』というのと『これは完全にマーシー君(澤田氏)の趣味だな』というのがあると思いますね」
 
■“趣味”でリリースしているとHIGHSCHOOLさんが感じたのは例えばどれですか?
DJ HIGHSCHOOL「最近だとMONAD 『the monad collective』 とかですかね」
「栃木の方の、世界で一番神秘的な郊外のサイケデリック・ハードコア・バンドだと思うんです(笑)」
DJ HIGHSCHOOL「D.O.Dも趣味の部類だと思いますね。」
「俺もなんでD.O.Dを出すことになったのか全然分からない(笑)。ERAがPAPER SOLDIER$以外で、一番最初に世に出したラップの音源がD.O.Dのアルバムに入ってる“Sucker MC’s”って曲なんですよね」
 
■ある意味、澤田さん流の“名盤解放同盟”なんですかね。過去の音源の発掘ではなくて、リアルタイムで制作しているわけですけど。
「ちょっと失礼な言い方かもしれないですけど、MONADに関しては、世に出したことに喜びを見出していたりするんです(笑)。これを世に出したから、聴くことが出来るわけじゃないですか。3年間ぐらい作ってて、俺も何回もキレたりしてるし、途中でメンバーが変わっちゃってもいる。アルバム出した後にヴォーカルが辞めて、ドラム・ヴォーカルになって、最初はデス・ヴォイスのヴォーカルだったけど、今はハイトーン・ヴォイスになってるから」
 
■それはもう別のバンドですね。
「あと、何の形式で出すかも考えてる。レコードで出すやつはレコードで聴いてほしいから、ダウンロード・コードも一切付けないし、1月にISSUGIの音源をMASS-HOLEがリミックスしたMASS-HOLE vs ISSUGI『1982S(THE REMIX ALBUM)』をカセットテープで出すけど、あれはMASS-HOLEが車でカセットしか聴けなくて、そのために作ったやつだから、俺もMASS-HOLEもカセットで出すこと以外には意味がないと考えてるんですよ」
 
■なるほど。ところで、2014年の日本のラップの目玉の作品と言っても過言ではないのが、Febb「THE SEASON」とCAMPANELLA「VIVID」だと思うんですけど、この二枚の制作への関わり方はどういったものでしたか?
「Febbのアルバムは『2018年のHIP HOP』としてリリースしていて、完璧な音質に拘ったアルバムなんですよ。レーベルで働いている人の中には、『これはこの程度で行きましょう』っていう妥協があるじゃないですか。そういうのがとりあえず全部クソだと思ってるんで(笑)、『誰も追いつけないところまで行ってみよう』というコンセプトがありましたね」
 
■ということは、FebbとCAMPANELLAの二枚はプロデューサー的な立場で制作していると言っていいですか?
「そうですね。二枚のリリース時期が近くなっているのは、両方遅れたから、という以外の理由はないですけど(笑)。Febbとすごい話して、『欲しい』となった海外のビートはふたりで連絡取ってぶち込んで、『THE SEASON INSTRUMENTAL』に入ってる“WHATS GOOD”のKEN SPORTのビートもぶち込んで。KEN SPORTにはデミさん(NIPPS)に連絡先を教えてもらいました」
 
■SKI BEATZのビートは澤田さんがわざわざNYまで取りに行ってきたんですよね?
「SKI BEATZからOKが出たんだけど、なかなか送ってくれないから、たまたまNYに行くタイミングがあったときに、『今からトラックを選びに行っていいですか?』って電話して約束を取り付けて、家まで行きましたね。SoundcloudにあったビートでFebbがすごい気に入ったのがあって、ソールドアウトになってたんですけど、SKI BEATZに訊いたら、『それはお気に入りって意味だから、渡せるよ』って。『なんなんだ』って感じなんだけど、さらっとパスしてくれたんです」
 
■それにしても、フットワークが軽いですよね。
「ノリですよ。ノリよりヤバイことはないと思ってるし、ノリが感覚の中で一番鋭いと思いますね。ノリで言っちゃったことって、実はやりたいことだけど、言わなければよかったってことが多いじゃないですか。すごい大変なことだったりするから。でも、それを全部やっていくと、結構すごいことができるなって。FebbはNYのHIP HOPが好きだし、NYでミックスしたいという話になったのと、CURREN$Yの『PILOT TALK II』の音が好きってことから、ミックス/マスタリングのエンジニアをBRIAN CIDにやってもらったし、ジャケットに関しても、誰も到達できないものを作ろうとしましたね」
 
■澤田さんから見て、Febbの魅力って何ですか?
「Febbが最初にHIP HOPを聴いたのは12〜3歳の頃で、EMINEMの『THE MARSHALL MATHERS LP』らしいんですよ。そういう風にHIP HOPを聴いて好きになっているヤツに、俺らの感覚では敵わないところは敵わないと思うんです。最初に見ているところが、ポップスも含めて世界でトップクラスのHIP HOPじゃないですか。自分たちの世代のHIP HOPとは、そこがちょっと違う。俺らの頃は、BEASTIE BOYSとかがアンダーグラウンドから上がって行く過程だったし。レーベルをやっていて一番面白いのは、『この人はこういうことがやりたいのかな?』と考えたり、これは合っていて、これは合っていないとか、そういうのを見るときですね」
 
■CAMPANELLAのアルバムに関してはどうですか?
「CAMPANELLAは元々『PSYCHEDELIC ORCHESTRA』でライヴを観たことがあったんですよ。でも、そのときは正直あまり記憶になくて。その後に、ATOSがRCSLUM RECORDINGSの選抜メンバーを『NEW DECADE』に連れて来てくれるってことで、そのときのTOKAI DOPENESSのライヴでCAMPANELLAを観て、『あいつ誰だ?』ってなりましたね。アルバムに関しては、名古屋との距離もあったけど、『こういうトラックとかジャケがいいんじゃない?』っていうようなアドヴァイスはしましたね。次の動きまでのステップをサポートして初めて、リリースが完了したと言えると思うから、CAMPANELLAとは今はそういう動きをしてますね。次はまた別のリリースの仕方で出来たらいいのかなって。そこまでは繋ぎたいですね。そういうのもあれば、ONE-LAW『MISTY』みたいに、スタジオやスケジュールのコントロールはONE-LAWがやって、俺がプロモーションやレーベルとの橋渡しをするという形で関わる場合もあります。『MISTY』はONE-LAWのFELLOWZというレーベルから出した方が完成度が高いと思ったんですよ。だから、完璧にONE-LAWの意見がメインのアルバムですね。CENJUの『CAKEZ』は、限りなくWDsoundsの作品に近くて、SKARFACEというレーベル名を付けただけですね(笑)」
 
■そして、2014年のWDsoundsの大きな動きには、CPFとのプロジェクト「WDsounds x CPF “5014 COMP MOST WANTED”」があるわけですけど、このプロジェクトを始めた経緯を教えてもらえますか?
「まず俺が、絡めそうだけど、絡んでいない人と作るコンピレーション・アルバムを出したかったんです。『この組み合わせでやったらカッコ良いんじゃないか』というイメージは湧くじゃないですか。でも、それをどこで実現すればいいのかは不明なんですよ。トラック・メイカーのアルバムにすると、トラック・メイカーは変えられないじゃないですか。だから、コンピレーションの形しかなかったですね。例えば、MASS-HOLEのビートでB.Dのソロの曲を作ったり、MASS-HOLEのビートでWILLIE THE KID/YUKSTA-ILL/ISSUGI/MASS-HOLEがラップする曲があったりする。だから、HIP HOPアルバムですね。バンドも入れたかったけど、間に合わなかったヤツとかタイミングが今回じゃなかったというのもありますね。去年の年末に、『コンピレーションを形に出来たらいいな』って漠然と考えていたんですけど、2〜3年ぐらい経たないと無理だなっていう結論に至っていたんです。その頃にMr.PUGの結婚パーティで、CPFの人と話して、そのときは『1982S(THE REMIX ALBUM)』をCPFで出せたらいいなってニュアンスで話したと思うんです。でも、年明けに会って話したら、『WDsoundsで何かやりませんか?』っていう話をもらったので、やることに決めましたね」
 
■なるほど。
「CPFとやれば、もうちょい広げられるかなって思いましたね。自分からすると普通なんだけど、分かれているところを分かりやすく提示できると思いました。コンピレーション・アルバムって全曲カッコ良いモノや、まとまっているモノって意外とないじゃないですか。変な話、『JUDGEMENT NIGHT』は、コンセプトは面白いけど、曲はあんまり好きじゃないものが多いし。好きなコンピレーションはなかなかない。だから、すごい難しいと思うけど、『こういう曲をやりたい』ってリストは頭の中にあって、コンピレーション以外のフォーマットではハメられなかった。まあ、でも思い付きですよ。BBHとMONJUの“SPACE BROTHERS”も『3人と3人で面白いじゃん』みたいなノリですよ(笑)。WDsounds所属のアーティストはいないし、所属のアーティストがいないのがある意味で“形”ですね。今回に関しては、自分はプロデューサーというより、もう少し離れた位置にいて、自分が見ているものを形にしただけです。だから、プロデューサーと言う程ではないですね」
 

 
■でも、やっていることはエグゼクティブ・プロデューサーだとは思いますけれど。
「WDsoundsは自分がやっているレーベルだけど、俺はWDsoundsのマネージャーでもありたいんです。自分会議が日々行なわれていますね。『やりてーなら、やっちゃえよ』みたいな(笑)」
 
■次々に思い付くアイディアを実現していく場がWDsoundsなんですね。
「みんなが無理だって思っていることを口に出して、やってみようとしていますね。それがコンセプトであるかもしれないですね。やりたいことがなくなったら、完璧にシャットアウトして辞めます。そこまで行けたらいいなと思いつつ、やっていますね。だから、いきなりパッと辞めることもあるかもしれないし、それぐらいの方が面白い。自分が昔やったこととか恥ずかしかったりするじゃないですか。俺もW.O.Bを辞めたら、もう一生バンドやらないと言っておきながら、今もやってるし、それぐらいやりたかったのかと考えれば、良い意味で考えられるじゃないですか。WDsoundsはそういう考え方でやっている延長線上にありますね」