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DS455
RIDE WIT THA D.S.C.(PART 1)

今でこそ完全にいちジャンルとして定着した感のある、日本のウエッサイ・サウンドだが、その基礎を築き上げたパイオニアで、名実ともに現在も最高峰に位置するのがDS455であることに疑いの余地はない。メジャー・デビュー以降の名曲を収めたベスト盤「The Best Of DS455」のリリースは、そんな彼らの成功への道のりを再確認し、再評価する絶好の機会だ。今となっては語られることも少ない、彼らのストラグルの時代と、そこから這い上がってきたサクセス・ストーリーを語ってもらった。

インタビュー:高木晋一郎

(90年代中盤当時は)NYサウンド全盛の時代だったから、ライヴする場すらなくて。
でも、日本のHIP HOPは多分一枚残らず聴いてたし、
『さんピンCAMP』も出れなかったけど観客として観に行って。
俺もパブちゃんもMACCHOも、雨の中で客席から見てるのを凄く悔しく思ってて。
そういう経験がプライドだったりこだわりになっていったんだよね——Kayzabro

 ウエスト・コースト・スタイル不毛の地だった日本に種を蒔き続け、現在では一大勢力となった日本のウエスト・コースト・スタイルの始祖と言えば、DS455をおいて他にいないだろう。今回は初となるベスト・アルバム「The Best Of DS455」のリリースに際し、来年20周年を迎えるDS455ヒストリーを語り下ろしてもらった。
 
■今回はベスト盤のリリース・インタビューということで、DS455のヒストリー的な部分からお話しを伺おうと思っています。まず、DS455の最初期ですが、DS455はKayzabroさんとSHALLAさんとで、PMXさんはMAZZ & PMXと、そもそもは別々に活動をされていたそうですが。特に、MAZZ & PMXでは12インチ“GO YELLOWS GO”や「DANCE 2 NOISE 001」収録の“ヴァイオレーター”を出されて、音源リリースもあったそうですね。
Kayzabro(以下K)「ただ、89〜90年ぐらいにはもう出会ってて。元々DSは俺の地元のツレ連中で集まって作ったグループで、凄くちっちゃなイヴェントを横浜で開いたりしてたんですね」 
 
■PMXさんが合流される前に一緒にライヴをされたりしてたんですか? 
K「MAZZ & PMXがCLUB CITTA川崎でライヴをやった時があって、その時に『DSも一緒に出ないか?』って誘われて、MAZZ & PMX WITH DS455って形で一緒にライヴをやったことがあったんだよね。それが一番最初にやったライヴかな。それでMAZZが抜けて、パブちゃん(PMX)がDSに入った形になって。それと同時期に俺のやってた洋服屋があったんだけど、そこにレイダースのキャップにウィンドブレイカー着た『こいつギャングスタ・ラップ好きそうだな〜』っていう中学生が来て、それがまだ14歳だったMACCHO(OZROSAURUS)なんだ。それでMACCHOが毎日店に遊びに来るようになって『ラップやってみたら?』って話したら、すぐに上手くなったから、じゃあDSに入れようって。それが今に至るDSが形作られた最初かな」 
DJ PMX(以下P)「音楽的なことをやり始めたのはそれ以降で、それまでは一緒に遊んでツルんでって感じだったよね。パーティを開いたりDJしたり、みんなで週末遊ぶような」 

V.A.「CLUB WILD.B」(95年)/
V.A.「THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.3」 (95年)

■DS音源としては、「THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.3」収録の“ROLL IN MY NIGHT OF MADNESS”が最初になるんですか? 
P「いや、WILD BLUE YOKOHAMA(注:90年代に鶴見に存在した屋内型プール。現在は閉園)のコンピCD『CLUB WILD.B』にDS455として“ROLLIN WITH MY MUSTY, ROLLIN WITH MY CADI”を入れた方が早いかな。マッチョもMC MACCHOとして“NANATSUKI”が入ってて。それが95年かな」 
K「たぶんそれが一番最初だと思う。イントロでD.Lに喋ってもらってるんだ」

■KayzabroさんとD.Lさんって実は付き合いが古いんですよね。 
K「コンちゃん(D.L)はずっとNYに子供の頃から行ってたんだけど、高校の時に一度戻ってきてて、その時にクラブで知り合ったんだよね。彼は茅ヶ崎だし、歳が一緒っていうので仲良くなって。それでまたNYに戻るんだけど、20歳ぐらいの時に一旦日本に帰ってきた時に、パブちゃんにも紹介して」 
P「MILOS GARAGE(注:DJ DOC HOLIDAY[現:須永辰夫氏]やZINGI、ECDなどが出演していた新宿のクラブ。現在も名前を変えて営業している)で、毎週火曜にHIP HOPばっかりかかってるイヴェントがあって、その時にコンちゃんを紹介されて。HIP HOPがクラブでかかるイヴェントなんてそれくらいしかなかったから、みんな集まってたね。それが90年ぐらい」
K「MUROやBOY KEN、キミドリ、GAS BOYSなんかも来てたよね」 
 
■パブさんはGAS BOYSの曲をプロデュースされてますが、それもMILOS GARAGE繋がりですか? 
P「そう。あの当時は裏方としてECDやZINGI、RHYMESTERにもトラックを提供して。その頃から俺はウエッサイをやりたかったんだけど、ウエッサイそのものが認知されてない時代だし、まだ自分の中でも見えてない部分もあって。その少し前はPUBLIC ENEMY(以下PE)みたいな激しいのも好きだったから、N.W.Aも好きになって、その流れで両方(東も西も)追いかけてたんだよね」 
 
■それが西に完全に針が振れたのは? 
P「DR. DREの『THE CHRONIC』が出た時だと思う。あのぐらいから完全に西になって、メロウなモノの方がカッコイイなって。それからWARREN Gとかを追い始めるんだよね」 
K「俺もRUN DMC〜PEって東モノをガッツリ聴いてたんだけど、DE LA SOULぐらいから物足りなくなって。その時にパブちゃんにN.W.Aを教えてもらって、はじめは『ダサいな』って思ってたんだけど(笑)、聴いてく内にその中毒性に気付いて。それで『THE CHRONIC』が出るぐらいにはもう完全にハマってて」 
P「それで『CLUB WILD.B』とか、『THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.3』ぐらいのタイミングで裏方仕事を辞めて、DSとしてウエッサイなトラックを発表し始めたんだ。やっぱり徹底しないとどっちつかずになっちゃうから」 

「BAYSIDE RIDAZ」(00年)

■その意味ではウエッサイものを作れないフラストレーションは裏方の時にはありましたか? 
P「ちょっとね。ウエッサイな曲を作ってもリリースできないし、レコーディングさえできなかったから。今みたいにPro Toolsが個人でも持てて、自宅で録れる時代じゃなかったから、録るとしたら高い金払ってスタジオ押さえなくちゃいけなかったし」
 
■そういう意味ではウエッサイ・スタイルが無視されていたというか。 
P「流れ的にそういう時代だったね」

■それは何故だったんでしょう? 
P「やっぱり、ギャングスタだったりっていう、イメージが良くなかったからなんじゃないかな。それにNYモノのビートの方が受け入れられやすかったんだと思う。クラブで踊るにしてもね。ウエスト系のHIP HOPはチルってるモノが多いし、聴いた印象も全く別物だったろうしね」 
 
■そういう状況をどういう風に見てました? 
P「その時思ってたのは、とにかくDSは日本のウエッサイのはしりのグループとしてやっていけば絶対芽が出ると思ってた」 
K「ただ、その当時MICROPHONE PAGERだったり、BUDDHA BRANDだったりががんがんメディアに出れるようになってくのを、ちょっと悔しく思ってた。NYサウンド全盛の時代だったから、俺らはライヴする場すらもなくて。それで段々気まずくなって(NYサウンドにインスパイアされた勢と)離れてっちゃったって部分もあるんだよね。でも、日本のHIP HOPは多分一枚残らず聴いてたし、『さんピンCAMP』も出れなかったけど観客として観に行って。でも、俺もパブちゃんもMACCHOも、雨の中で客席から見てるのを凄く悔しく思ってて。そういう経験がプライドだったりこだわりになっていったんだよね」 
P「それで、そこに入るより、ウエッサイの第一人者になろうと、シーンを作ろうって意識になっていたんだよね」 
 
■ただ、例えばそういう状況だと腐ってしまったり、極端な話、辞める人もいると思うんですね。その状況にあっても「このスタイルで進めば大丈夫だ」って精神を保てた理由は? 
P「趣味に近い感覚というか、『好きだからやってる』ってトコなのかな。今だってその気持ちは変わらないし。特にその当時は、『他の仕事しながら音楽できりゃいいや』って気持ちだったからね、音楽で食おうって思ってないし」 
K「だから、『俺たちはやれてない』って意識じゃなくて、『あいつらだけいけるようになったんだな』って気持ちだったから。例えば草野球のチームがあって、みんなそこに最初はいたんだけど、その中からプロに行くヤツもいるけど、俺たちは草野球が好きだからやってるって感じだったんだ」
P「だから1stの『BAYSIDE RIDAZ』を出す以前は、一生懸命練習してっていうより、酒呑んでる時にラップしたり、遊びに近い感じだったね」 
K「その頃、マンション一部屋借りてて。毎晩のようにそこにみんな集まって、『この新譜聴いた?』とか、みんなでリリック書いたり、溜まり場的な感じだったね。それで出れるライヴがあればどこでもみんなで行って。繋がりはみんなウエスト・コーストのラップが好きってくらいで」